
アフロヘアのDJ ボビー君、元気かなあ?
最後に会ったのは1979年ぐらい。
大阪の畳屋町のマギーってDISCOでした。
朴おっと、僕がCOOLS RCのスタッフをやっていた頃(17歳~19歳)、COOLS初のニューヨーク録音アルバム「ニューヨーク・シティ N.Y.」(1979年)のプロデューサーとして日産サニー・クーペ1400エクセレントで登場したのがあの山下達郎さんでした。16歳のとき横浜西口のディスコ「ソウルトレイン」だったか「パープルフィッシュ」だったか忘れたけど、そこで黒皿をまわしていたボビー君というDJがよくかけていたシュガー・ベイブの「ダウンタウン」という曲で初めて山下達郎さんの音楽と存在を知り、ソロ・アルバム『サーカスタウン』を買って以来、全アルバム欠かさず買っております。ここには写真を4枚しか掲載できないので悪しからず。で、その当時、山下達郎さんの音楽について皆で語るとき、それぞれがそれぞれの思惑で好き勝手に解釈して、辻褄の合わない会話、ボタンのかけ違った会話、論点のズレまくった会話、或いは「某まで某テレビ」で度々起こる水掛け論みたいな展開の会話を楽しんでいました。そりゃ頭にも来るし、喧嘩にもなるんだけど、それが快感にもなってるんだからそれもひとつの変態な娯楽ちゅうことでね。で、俺にとって山下達郎さんはある意味「ロックンロール」であり「パンク」でもあるんですが、へたにそんなことを言おうもんなら、たちまちのうちに額面通りの「正論ハラスメント」とやらにやられてあいやいやいやいってなもんです。「達郎さんは和製M.O.R.の極北だろ!」「誤解を恐れず言うなら洗練されたシティポップスの先駆者だ!」「ドゥワップの生き字引だ!」「達郎さんを語る上でアイズレーブラザーズは外せないだろ」「その前にムーングロウズだろが!」「いや、ホワイト・ドゥワップこそルーツだろ!」「いやいや売れてなんぼだろ」などなど・・・、全然、俺が投げかけた言葉とは関係ない展開になりストレス満載。俺は別に達郎さんの音楽をM.O.R.(ミドル・オブ・ロード)というカテゴリーで語ることは間違ってる!なんてことは言ってないし、達郎さんとドゥワップの関係性についてはむしろ重要かも知れないとすら思ってはいるけど、敢えてそれは置いといて、ってことでそう言っただけなのに、その「ロックンロール」とか「パンク」って単語の響きにだけ過剰反応されてしまってはねぇ。しかも、他人の話を最後まで聴かない声の大きな奴に言葉を被せられ、言いたいこと、伝えたいことの本質のこれっぽっちも言えぬまま、コマーシャル又は時間切れにて番組終了という残尿感ぶりでした。だから「♪俺の話をきけえええ!」って言うのは、俺とかガーチャンのような基本的に声の小さい男の心の叫びなんdeath(涙)。とにかく100人いれば100通りの勝手な解釈が生まれるアーティストって達郎さんに限らずいるわけですが、そういう勝手な思い込みをぶつけ合うのもまたファンであり、頓珍漢に白熱しながらもそれで時間を消費することで、悩む時間もなくなって、あとは疲れてぐっすり寝れるので、こう、若い頃特有の「死への誘惑」に負けず、そこを乗り越えられたというのはマジであったわけです。今も俺が暇を嫌うのは暇があるとネガティヴなことばかり考えてしまうからです。「心を亡くすと書いて忙しい」。そうです、心を亡くすことで乗り切れるものもあるのです。時には休憩も必要ですが、間の悪い休暇、バランスの悪い休憩は余計にストレスが溜まるのです。で、例えば一聴した限りでは心地良いM.O.R.っていうか、和風に言うならA.O.R.(アダルトオリエンテッドロック)、或いはシティポップスというのがありますが、そういうあまり癖のない耳障りの良い音楽であっても、よくよく聴くと「ん?」みたいな、いい意味の微妙なズレ、いい意味の違和感のある音楽って凄くセクシーで好きなんですが、俺が山下達郎さんや、ユーミンや、細野晴臣さんや、吉田美奈子さんの音楽に持ってかれたのは、そういう「ん?」な部分がちゃんとあるからなんです。後に知ることになる、スティーリー・ダンなんかもそういう部分あって好感が持てました。ところが、達郎さん登場以降の、所謂「達郎フォロワー的」な人たちの音楽には、シティポップスの表層ばかり特化してて、肝心のものが欠落してる「のっぺらぼう」な印象があったのです。都会的に洗練され心地よいだけでなんにも響くもんがないんです。ま、その違いを具体的に言うのは難しいんですが、水準以上のクオリティーがあるのに、何か出汁に問題があるのか、巧いんだけどちっとも旨くないというね。山下達郎さんにあって、フォロワーにないもの。それはほんの数滴の絶妙なスパイス、秘伝のスパイス、或いは、その料理法なんじゃないかと思うんですが、そんな理屈を越えた何かがありますので、フォロワーの人たちがどんなに達郎法を研究しても、その味が濃過ぎたり、薄過ぎたり、駄目なんです。数滴垂らすとちょうどいい秘伝のスパイス、それがなんなのかは実体が分かりませんが、それは世界のどこを探しても絶対に達郎さんにしかないものなので、その音楽のソースと思われる楽曲を聴いてもそのすべてが解読できるものではないんです。それにどんなに真似してもあの感じは出せません。で、それを分かってない人は短絡的に「ああ、『STORM』ね、あれはドラマチックスの『In the Rain』のパクりだろ、ほら、コード同じじゃん!」なんて薄っぺらいことを言って片付けてしまうんです。或いは品よく「引用」って言葉で言い換えても、結局は自分の音楽知識をひけらかしに終始したり、本質的にはあまり具の部分の心までは届いていない認識というのが多いよね。DJ以降、ヒップホップ以降、達郎さんをはじめヴェテランの音楽家のセンスを本質的に理解する人が多いのは、彼らが「音楽」をアーティスト性よりも「楽曲性」の電波で認識することで、逆説的に音楽家の本質をあぶり出す感性の耳、感性の目を持っているからだと俺は思います。だから、ある時期、大人の思惑で詰めの甘いまま進行したライヴハウスよりも、クラブ・フィールドの現場こそがリアルだったんだと思います。もうひとつ、確かに達郎さんは黒人音楽マニア、オールディーズ・ファンをも卒倒させるほどの莫大なレコード・コレクションがあったり、その知識も半端じゃありませんし、その拘りぶりたるや、常人の想像を絶するものがあるのですが、達郎さんをワン&オンリーたらしめているものは、決してそういう一面だけではないと思うのです。昔、新宿のルイードってライヴハウス(シャネルズで有名になった)で、いかにも「SOULやR&BをROOTSにまで遡り系統立てて聴き徹底的に研究しました!」って感じの「知識満載の本格的凄腕ソウルバンド某」が出ていたんですが、そのとき思ったのは、「確かにソウルマナーについてよく研究してるんだけど全然面白くない。これなら本当の黒人音楽聴いた方がいいや」ってことだけでした。で、そのあとに出たヘタウマ(いい意味ですよ)のモッズ系R&Bバンド某をみて、全然そっちの方がサウンドに妙味があって、レシピのセンス(音色)も抜群に良かったんで、雰囲気では圧倒的にそっちのが勝ってました。むしろ、難しいのはそういった「雰囲気」を質感として出すことであって、こればかりは楽理やテクニックだけでは越えられないものdeath。で、達郎さんには両方あるんです。世間のイメージ的にそういうのがあるかないかは別として、「ロックンロール」のIDでもある「質感」を司るセンスが達郎さんの音楽にはギンギンにあるんです。というか、むしろ、そのラインの権化であるとすら思うのです。だから信用できるし、音楽誌がこぞって無視して来たCOOLS R.C.のようなバンドに対しても、そのサウンドに独自のセンスがあったということを見逃さなかったのも山下達郎さんならではの審美眼なわけで、残念ながら達郎フォロワーにはそんなセンサーは内蔵されておらず、ガレーヂパンクなサウンドは「ただの雑音」としか聴こえていなかったりするのです。心の耳の性能が悪いってことです。そんな達郎フォロワーさんたちの最大の欠点を誤解を恐れず並べてみますと、スネアの音色が不合格、ドラムのオカズが不合格、ドラムのグルーヴが不合格、ベースラインが不合格、ベースの音色が不合格、ギターソロのフレーズがコンテストっぽかったりで不合格、ギターのカッティングが不合格、鍵盤のボイシングが不合格、歌はヘタでも味があれば合格なんだけど「巧いでしょ」って顔しながら酔って歌ってるわりには声がコビてたり翳りがなかったり溌剌とし過ぎてたら不合格。で、どんなにコマーシャリズムに乗ろうとも、どんなにメジャーシーンに身を置こうとも、どんなにヒットを飛ばそうとも、その芯がブレることがないのは、ロックンロールなる芸能が「グレートでファッキンなスウィンドル・ビジネス」であるということを念頭においた上でなおも輝くものであることを生理的に認識してらっしゃるからではないかと勝手に想像しておるわけでございやす。そして、ロックンロールの美意識の重要ポイントは、基本的には「なんでもOK」なんだけど、「絶対にこのフレーズだけは弾いちゃダメ!」とか、「絶対にそういう顔で弾いちゃダメ!」とか、「絶対にその言葉言っちゃダメ!」とか、ダメ出しがあるのですが、達郎フォロワー的な方程式では、そのダメ出しが非常に難解なものである為、徹夜で頑張っても正解に至らないのです。で、やはり、その絶妙な感覚をわかってないと、あっち側のロックンロール(R&Bでもレゲエでもいい)なのか、こっち側のロックンロール(R&Bでもレゲエでもいい)なのかって大きな違いにて区分けされます。ただ単純に「音楽が良ければあっち側だってこっち側だって関係ないじゃん!」っていうのは正しいと思いますし、俺もそういう考えですが、やはり、そんな中にも大きく分けて、居ていいお水、居ちゃいけないお水ってのがあるので、そこでの判断は誤りたくはないのです。ジャンル問わず俺が「こっち側の人」って思う人って、なんとなく共通点があって、同じ側にいながらも共闘なんかせずに勝手にやってる感じですが、「あっち側」の人って、みんな判子で押したみたいで俺には不気味です。なんで同じタイトルの歌ばっかり歌うのかも謎です。どういう陰謀なのか?って深読みまでしてしまいます。ま、いいか、それは。で、この山下達郎さんへの勝手な想像が当たってる、当たってないってことよりも、そういう勝手な想像をかきたてる存在であるってことを俺は言いたいわけで、それこそがロックンロールという得体の知れぬ怪物の魔力でもあるわけで、ロックンロールってのは反体制の立場ではありながらも、反政府的、或いはセクト主義的な枠にすら収まらず孤高のスタンスでそこにあるように思いまして、それこそがまさに俺が勝手に想像し、勝手に思う達郎さんなのです。で、想像してるだけでいいんです。だから、絶対に生身の達郎さんと会って会話したいとは思わないし、対談なんかしたくないのです。そういうことではないんです。実際の達郎さんよりも、俺の中の山下達郎が山下達郎さんなんです。ま、ここ数年はあまりにも「偽物」(良くも悪くもですよ)が多いんでその反動からか「本物志向」ばかりが尊ばれる傾向があるのですが、「本物」って言葉ほど胡散臭い言葉はないし、これによって「偽物」の有り難み、「偽物」であるが故の絶妙な味(人工甘味料的な味、チクロな味)を研究することを忘れてしまってはそれはそれでポップ・カルチャー的な損失であり、バランスが悪いと思います。本物とか偽物って杓子定規じゃ測れない別の次元の基準のひとつに俺の中の山下達郎がいます。また、ぐちゃぐちゃとややこしく自分勝手な想いを言いました。CKBマニアの方、達郎ファンの方、勝手なことばかり言ってすみません。スルー大歓迎death(涙)。
※情報量多過ぎで「結局、何を言いたいのか?」って感じですが、実はこれだけ書いておきながら、実のところ言葉的には何も言っていないのです。俺にとっては、それこそが「音楽」の居場所、音楽を置くことのできる余地なのでございやす。「音楽なんか聴く暇あったら、金稼ぎたい!」ってPC画面とにらめっこって人もいれば、俺みたくNO MUSIC NO LIFEな人もいるので、そういう意味で、俺は何も言ってないんだけど、文字にて行を埋めながら、空気中の電気菩薩= 勝新太郎by「警視K」(音楽:山下達郎)を呼び込んでおったわけdeath。ま、こんな事書いても一銭にもならないけど、最近、健忘症禿しいので脳トレにはなる是!
※読み返して後悔!ああ書くんじゃなかった。今さら消去もみっともねぇ、だからそのままにしときますが、突っ込み甲斐がないほど突っ込みどころ満載ですねえ。訂正するのも烏滸がましい誤字脱字の満漢全席。だがな、後ろから刺す奴はブタ野郎だぜ!ってことで許してくれくれたこら。イイネェ~!
※親鸞聖人の教行信証と同じとは恐れ入ります(汗)。今日はすこぶる体調が良いのか、陽気のせいなのか、そのGROOVEでもって、ただただ指まかせに長々と駄文を打ってるだけなんですが、あとで何かと何かがバチッと繋がったりすることもあるので、無駄に長い文を書くという趣味が始まったのも知れないです。子供のとき、そんな風に作曲を始めたという経緯もあるんで。
※WINDY LADYは最高にいいっすねえ! 10代の頃、真剣に作曲屋目指して売り込みしてたんで、この曲聴いたとき「もう、俺には無理だ!音楽なんてやめて悪いことでもしてメシ喰おう」なんて本気で思って悲しくなりました。当時の俺のバンドにはホーンズもいなけりゃ、難波弘之さん的なセンスを分かるキーボーディストもいませんでしたからねえ。周辺にはハードロックかフォークのプレイヤーしかいなかったんで、こちらの要求に対して、返ってくるものが「がっかり」という名の音だったり言い訳だったりしたもんです。俺の好きなメジャー7thや、ジャズの代理コードを好むプレイヤーなんてまずいませんでしたからね。今は「さかいゆう」とか、10代、20代全半の若さでそういう感覚持ってる人がいるから、ある意味嬉しい時代です。若い人を上から目線で見おろしちゃうと見失うものがいっぱいあります。
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